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池波正太郎: 真田太平記(一)(二)(三)(四)(五)(六)(七)(八)(九)(十)(十一)(十二)

img-Z05085355.jpg(一) 天魔の夏
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍によって戦国随一の精強さを誇った武田軍団が滅ぼされ、宿将真田昌幸は上・信二州に孤立、試練の時を迎えたところからこの長い物語は始まる。武勇と知謀に長けた昌幸は、天下の帰趨を探るべく手飼いの真田忍びたちを四方に飛ばせ、新しい時代の主・織田信長にいったんは臣従するのだが、その夏、またも驚天動地の事態が待ちうけていた。

昭和62年9月25日 発行
平成22年3月30日 58刷

                     





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 (二) 秘密

天下統一を目前にした織田信長が本能寺に討たれたことから、諸雄は再びいろめきたつ。上・信二州に割拠する真田昌幸は、関東の北条、東海の徳川、越後の上杉と対峙しつつ、己の命運を上田築城に賭けた。一方、昌幸の二人の子供、兄の源三郎信幸と弟の源二郎幸村、そして従兄弟の樋口角兵衛をめぐる真田家の複雑に入り組んだ血筋が、小国の行方に微妙な影を落としてゆく。


昭和62年9月25日 発行

平成19年10月25日 51刷



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(三)上田攻め

上州・沼田城の帰属をめぐり北条家と争う真田昌幸は、ついに徳川・北条連合軍と戦端を開く。出来たばかりの上田城に拠った昌幸親子は、捨身の決戦で数倍の敵を退ける。そして、旧態依然たる北条家のふるまいに嫌気がさした豊臣秀吉は、甲賀忍びの御伽衆・山中長俊の仕組んだ謀略を使って開戦にもちこみ小田原城を攻め落とす。こうして秀吉の天下統一はなつたのだが・・・・・・・。


昭和62年10月25日 発行

平成22年5月15日  58刷





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(四)甲賀問答

天下統一をなしとげた豊臣秀吉は、これまでとは人柄も変わったようになり、無謀な朝鮮出兵を号令。そこに豊臣政権のほころび目を見てとった甲賀忍びの頭領・山中俊房は、秀吉の御伽衆である又従弟の山中長俊に早くも手を回し徳川方への加担を説く。ここに甲賀忍びと真田の草の者との凄絶な戦いが開始され、壺谷又五郎や女忍者お江の常人には推しはかれない活躍が繰り広げられる。


昭和62年10月25日 発行

平成19年12月20日 50刷



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(五)秀頼誕生

肉親を次々と失い朝鮮出兵もうまくゆかず、豊臣秀吉は日に日に生気を失っていく。秀吉歿後をにらんで諸雄は動き始めるが、思いがけず秀頼が誕生したことで天下の行方は混沌となる。いったんは次の天下の主は徳川家康をおいて外にないと確信した真田昌幸であったが、「好きな男」秀吉の世継ぎに己の命運を賭けようとして、徳川方から嫁をもらった長男・信幸との関係が微妙になる。



昭和62年11月25日 発行

平成22年3月5日  54刷




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(六)家康東下

幼い秀頼と豊臣家の行方を案じつつ秀吉が亡くなると、徳川家康は朝鮮の役での文治派と武断派の対立を巧みに操りつつ豊臣家を分断していく。そして石田三成と結んだ上杉景勝を撃つべく家康が会津に兵を進めると、三成が兵を挙げ、ここに東西決戦の陣形が定まる。この重大局面にあたって真田父子は会津出陣の途上で一夜会議し、昌幸と幸村は徳川軍団を離れて上田城に帰り、信幸は留まる。


昭和62年11月25日 発行

平成22年2月5日  51刷



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(七)関ヶ原

会津出陣中の徳川軍団から離れ上田に帰った真田昌幸・幸村は、ただちに城の守りを固める。家康は息子秀忠に中山道をゆく第二軍を率いさせ、真田信幸に先陣を命ずる。秀忠軍四万を上田城に迎えうった真田父子は、様々な謀略を使ってこれを釘づけとし、ついに関ヶ原の決戦に間に合わせなかった。真田父子が徳川軍の約半分を削いだにもかかわらず、結束のはかれぬ西軍は家康に敗れる。



昭和62年12月20日 発行

平成23年11月30日 54刷



img-926081146.jpg (八)紀州九度山
 真田昌幸・幸村のために関ヶ原の決戦に間に合わなかった徳川秀忠は、家康から痛烈な叱責をうける。家康は真田父子に切腹を申しつける決意でいたのだが、真田信幸の舅で徳川家譜代の重臣・本多忠勝の戦も辞さぬ助命嘆願に屈して紀州九度山に蟄居させられることとなる。わずかの家来だけをつれて九度山に移った父子は「関ヶ原の戦い」が再びおとずれる日を夢みて孤立した日々をおくる。


昭和62年12月20日 発行

平成22年11月5日  51刷

img-X22164831.jpg (九)二条城
淀君によって大阪城から一歩も外に出されたことのなかった秀頼であったが、豊臣家を思う加藤清正らの奔走によって、ついに二条城において家康との対面が実現する。しかし立派に成長した秀頼の姿は、あらためて家康に豊臣家取潰しの決意を固めさせ、甲賀忍びに清正毒殺の使命が下る。東西手切れに向かって情勢が緊迫する中、その日を見ることなく真田昌幸は九度山で永眠する。

昭和63年1月25日 発行
平成22年2月5日 47刷

img-Y06171332.jpg (十)大阪入場
徳川家康が方広寺の鐘銘に難癖をつけるなどして強引に豊臣方を開戦に追い込むのを見てとった真田幸村は、密かに九度山をぬけ出て大阪城に入ることを決意する。大阪入場を果たした幸村は、外濠の外に真田丸と名づけた小さな砦を設け、これに拠って徳川軍を散々に打ちすえる。この一戦によって幸村の武名が初めて天下に轟くが、すでに家康の和平工作が淀君周辺に及んでいるのだった。

昭和63年1月25日 発行
平成22年10月30日 49刷

img-115085301.jpg (十一)大坂夏の陣
和議休戦の翌日から、徳川家康はすべての参陣者を動員して外濠のみならず内濠までも埋め立てさせ、真田丸もまた破却されてしまう。幸村を取りこもうとする家康の計略により、信之(信幸改め)と幸村は京都で会見するが、幸村の家康の首を取るという信念はゆるがない。元和元年五月七日、裸城となった大阪城を打って出た幸村は、若き日の予感どおりに向井佐平次とともに戦場に倒れる。

img-128084618.jpg (十二)雲の峰
関ヶ原の折の屈辱を忘れかねる徳川秀忠は、家康が死去するとただちに信之の真田藩に襲いかかった。秀忠は、信之の側近に送り込んだ隠密を使い、冬の陣の直後に幸村と密会した事実を突いて取り潰しに追込もうとするが、ただ一人生き残った草の者お江の活躍で信之は難をまぬがれる。そんなある日、上田城に向井佐助の最期を見とった摂津の農夫が遺品を届けに現われる・・・・・・・。

昭和63年2月25日 発行
平成23年8月20日 50刷




 






 

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