岩見沢市開基130年 市政施行70周年記念式典
平成25年10月2日(水)10時より
岩見沢市民会館まなみーる大ホールにて、表記の記念式典が開催されました。
明治11年、幌内で見つかった石炭を運ぶために、鉄道を敷くための道路が開削される。その時、札幌-幌内間に5つの官営休泊所ができ、その内の一つが現在の北本町にある幾春別川のほとりの「岩見沢発祥の地公園」。(ちなみに、その官営休泊所を譲り受け、岩見沢最初の定住者と言われるのが狩野さん。だからその真ん前の橋の名前は狩野橋。。)
当時、この場所で疲れを癒すために湯を浴びたことから「湯浴(ゆあみ)澤」。それが変化して岩見澤になったというのが岩見沢神社の敷地内に明治時代に建立された記念碑に刻まれている地名の由来。
この由来には他にも諸説あるものの、癒しが語源の地名とは自慢の地名ではありませんか!
そして明治15年、三笠幌内で採掘された石炭を国家プロジェクトとして本州に輸送するために、小樽港まで鉄道が敷かれる。それは、新橋-横浜・大阪-京都等に次ぐ、国内3番目の早さで敷かれた鉄道→幌内鉄道。
当初、北海道開拓史の助っ人アメリカ人であったクロフォードらの手により考えられたのは三笠ー江別までを鉄道で、そこからは石狩川から船で・・という話もあったそうだが、冬期間の凍結を考慮して、結局は小樽港まで鉄路を伸ばすことに。
この幌内線の開通が明治15年、その時にまだ岩見沢に定住者は存在せず、人より先に駅ができた変わった街でありました。
それから遅れること2年、明治17年に開拓者が入植し、晴れて岩見沢村が誕生。それから数えて今年が130年の節目であります。
その後岩見沢は、空知の優良な産炭地に恵まれ、岩見沢を中心に北は砂川・歌志内方面へ、、南は夕張、万字、、東は三笠、そして膨大な量となった石炭は小樽港だけでは積み出しが間に合わず、室蘭港まで運ぶこととなり、またもや岩見沢から鉄路が延びる。
このように、北海道の鉄道は岩見沢を中心として、東西南北に延びていったと言っても決して過言ではないのです。それこそがピーク時には東北以北最大の操車場を持つに至った理由でありました。
また、その鉄路は例えば、小樽から行商列車に乗って海産物を背負ったおばさんが岩見沢駅前に市を開く。今度はそれを目当てに、近隣の産炭地から商店主達が買い付けにくる。そのように、岩見沢駅には様々な物が集まり、そして散っていった拠点としての役割が大きく存在したはず。そこではモノだけではなく、価値感、文化、情報等々、あらゆるものが集まっては散っていった、そんな貴重なHUB(拠点)の地であったと考えます。
そんなまちの背負った生い立ちの延長線上に新しいまちのアイデンティティを築いていきたい。と活動しているのが【いわみざわ駅まる。】でありまして、あらためてまちの歴史などを紐解いていくきっかけとして、このような式典に参列させていただくと、感慨もひとしおであります。
ちなみに、式典としては、、
ロビーでは百餅若衆による餅つきや、教育大学生のロビーコンサートがあり、定刻になると式典が始まりました。
松野市長による式辞や、各功労者への表彰、来賓の挨拶、市議会伊澤議長による決意表明の後、交響詩岩見沢の合唱が始まります。
この水先案内人は、駅まるの仲間である和田範美氏。(これ以来、すっかり役者になってしまいました(笑))
この全ての演出は駅まるTVでも大役を担っている、はまなす&アートミュージックの竹内恭平氏。
この厳粛に執り行われた式典のクライマックスとして、合唱団「結」と子ども達が交響詩岩見沢を歌い上げる様は非常に素晴らしいものでした。
あらためて、この岩見沢で暮らす自分たちの背景を認識する次第です。
原生林と湿地帯という過酷な環境を切り開いた先人達の苦労から、まだわずか130年。
その環境に胡座をかくことなく、次のステップに向けて私達は進まなければなりませんね。
そんな事を感じさせてくれる素晴らしい式典でした。