私の住む街(浅草)には、近所に洋食屋が多いのだが、今年(2008年)初めてのビーフシチューでランチは、なぜか岩見沢市のラストラン コロナで、ということになった。
老舗の洋食屋のある街は幸せである。
洋食屋は、街中で暮らすことの象徴のようなもので、象徴であるということは街中で暮らす人々のこころの平穏を表徴している。新興住宅地やハイパーなマンションの立ち並ぶ土地にうまい洋食屋がないのは、洋食屋が街場という地面から生えてきたものに他ならないからだ。
「地元」というのは、まさに自分が立っている地面そのものの範疇の場所で、いつも「自分」に含まれている。(江弘毅:『「街的」ということ』:p24-25)
地面から生えてきたものとはつまりは「街的」であることであり、それは身体性を伴った――生活する――〈私〉のことでしかない。それはまた「浅草的」でもあり、「パトリ」でもあり、アジール性を伴った「中景」でもあることで、
寿司と洋食と蕎麦は、近所のがいちばんうまい。
のである。
岩見沢のコロナは、近所の洋食屋として振舞う術をもっていて、子宮的安心感としかいえない佇まいを示してみせる。それは無理が無く、母性的に、穏やかに、でだ。
だから客は、その空間の一部のように存在することができて、この店にくると安心し、穏やかになり、無理がなくなる。
そしてこの店の料理はその安心を表徴するように無理が無い。街の洋食屋として奇をてらうこともなく、まことに正しい(街の)洋食を出す。
レストラン コロナ
岩見沢市2条西3丁目4
0126-22-0645
by 桃知利男